円蔵の歴史


遠く鎌倉時代の足跡がいまに残る円蔵の地

懐島郷(ふところじまごう)の領主 懐島(大庭)景能(景義)


永保3年(1083) 後三年の役で源氏の総大将 八幡太郎義家の臣下で大活躍した鎌倉権五郎影政の孫 景忠が藤沢在大庭村に移り、そこに城を築き大庭を姓とした。そして相模川下流以東一帯の大庭の庄のうち懐島郷を長男 大庭景能に弟の景親が城のある大庭の地を、下の五郎景久が俣野村を分地された。景能は懐島郷 円蔵に来て館を構え姓を懐島と改め懐島権守平景義と名乗ったのである。弟の大庭景親は源平の戦で俣野五郎景久と共に平家方につき平家の大将として石橋山合戦では源頼朝を窮地まで追い込んだ武将である。この景能の知行地 懐島郷とは、今の円蔵・西久保・浜之郷・矢畑・松尾・下町屋・鳥井戸あたりという。円蔵を居住地とする武将 景能は保元乱(1156)年に源義朝軍に参戦し活躍、敵の総大将 弓の名手の鎮西八郎為朝の強弓で膝を射ちぬかれたが、鎌倉では名誉の負傷として有名だったとの事。その後、冶承4年(1180)源頼朝の挙兵の時、馳せ参じ平家軍と戦う。石橋山では、兄弟 敵味方に別れ戦ったが結果、源氏の勝利となる。そして頼朝の鎌倉入りで、作事奉行に任命され頼朝の邸を造営し由比の若宮八幡宮を今の鶴ヶ岡の地に移し道路を整備して鎌倉の基礎を作る。建久2年(1191) 懐島郷 浜之郷の鶴岡八幡宮を再建、頼朝の寄進により十二坊や仏殿など建立する。この為、普請事業に各方面から大勢の職人を呼び寄せ参加したのでそのせいか円蔵には職人が多い。円蔵の殿様 景義公は、この様に鎌倉に最も近い豪族の一人として重く召抱えられていたが、承元4年(1210)4月9日八十余歳の高齢で没す。


ゆかりの地名と足跡

 景能の館跡地は、7千坪あり この一帯の地名は御屋敷と呼ばれています。そのなかには、側近や重臣らが住んでいたと思われる。和泉屋敷・田中屋敷・近藤中屋敷・岩瀬屋敷・伊予屋敷・加賀屋敷などがあったようです。それに軍馬の訓練をした馬場先や馬を繋いだ馬入れの場所もあります。又、館を囲む外堀は埋められ今は田・畑に変わってしまいましたが、わずか一部の内堀がその跡を残している。円蔵の道路は道幅が狭く曲がりくねった道が多い。これは戦の時、館に敵が一気に攻めこむのを防ぐ為、景能が考えた道作りで円蔵九十九曲りと呼ぶ 又 古くは、丁字路(三ッ角)だけで十字路(四ッ角)がひとつもありませんでした。これも番兵が立った時、丁字路なら背後を敵に突かれる事がなく、前方だけ監視する戦略的な道です。このような狭い道路では現代の交通事情では不便ですが、昔を忍ぶ歴史ある道です。他に神明大神宮西側道路の「丸山七曲り」や円蔵小学校とJR相模線の間にあったと言う、高さ三尺・広さ一坪の塚が三個の「三ツ塚」、大山街道沿いの、どんどんと音がする「どんどん塚(坂)」、江戸末期に大山詣の旅人相手に名物のどじょう汁や麦とろ飯を売りものにした「鷺茶屋」大山街道から眺めると、円蔵の水田に春から秋頃にサギが多く飛来していたので、それお見てそう呼ばれたのか、定かではないが、往来の人々で賑わっためし処であったそうです。そのそばに、輪光寺の御本尊・地蔵尊が夏山の間、出開張し道中安全を願う参拝者の心の寄りどころとなっていたと伝わっていますが、残念ですが、今は影もありません。

古くから唄われた盆唄

円蔵と西久保の大山道に名所・古跡が五ヶ所ござる。
一にさぎ茶屋 二にどんどん塚よ 三は富士塚 四に河童徳利
河童の名所は間門川、間門川

円蔵にある神社、祠などのことをまとめて呼ばれているのが四神明・三山王・一社もり・八稲荷・七精の神。これは神明大神宮と神明社が4社・山王権現(日枝神社)が3社・厄病除けの神様でお杓子(おしゃもじ)を奉納したところからおしゃもじ様(社宮司神・信濃国諏訪大社)1社、正一位お稲荷様が8社、精神(道祖神)7神の総称で多くの神様が祀られてます。

この様に、円蔵は、懐島郷の中心となった地域であり、鎌倉時代の面影を多く残している土地ですので、地元民として誇りに思っています。

 



-円蔵の領主(地頭)−



    
天製18年(1,590)徳川家康より拝領する

      大田 善太夫 吉次
         石高  230石   田畑約35町1反歩
         民家   33軒     〔別に早川村(綾瀬市)に知行地あり〕
         
墓地  太田家 了覚院内
     
      横山 捨蔵
         石高  220石   田畑 31町1反歩
         民家   32軒
         
墓地  横山家 輪光寺墓地内

      辻 中兵衛
         石高   37石   田畑  5町4反歩
         民家    5軒     〔別に下和田村(大和市)に知行地あり


―円蔵の神社・寺院―



@神明大神宮
   御祭神  大日ルメノ命 (オオヒルメノミコト) (天照大神)

   神明神社は、懐島景能が承安年中(1,171〜1,175)頃伊勢の皇大神宮より御神体を分霊して頂き、
   館の四方に神明社を祀った。その時、館の鬼門に建立したのが神明大神宮と伝えられている。


A山王社 (日枝神宮)
   御祭神  大山昨命 (オオヤマクイノミコト)

   神明大神宮 奥宮にある古器物に明治五壬申年秋9月
    天照大神
    日枝大神   合社
   と記されており、一時、神明大神宮より遷され祀られていたが、
   昭和19年7月鐘楼堂の建物と共に現在地に遷宮された。


B
天慶山 地蔵院 輪光寺
   古義真言宗 本尊 地蔵菩薩 運慶昨
   開山 康永元年(1,342) 天快和尚

   (境内)
    1 市指定重要文化財 庚申塔 「三猿」 画像付
      寛永17年(1,640)茅ヶ崎市内最古のもの。全国的にみても三猿形式では最古ではないかと言われている。

    2 山王石祠 「一猿石像」 画像付
      寛文12年(1,672)

    3 河童徳利の碑 (昭和42年11月26日) 画像付
          
*うたかたを川の精霊(すだま)に獺祭り(おそまつり) 九一題

 中原街道(丸子・茅ケ崎線)の茅ケ崎と寒川町の境に大曲橋があります。古くは間門橋と呼びこの小出川を間門川と呼んだ。ここに伝わる
河童徳利の伝説です。働き者の五郎兵が野良仕事を終え、この間門川で馬の「あお」を洗っていたら、あおの尻尾に河童が噛み付いてきた。村人と一緒に捕まえたが後悔してるので、可哀想に思い諭して帰してやった。その夜助けられた河童が徳利を持って現れ、この徳利はいくら呑んでも尽きることがありません。ただ徳利の尻を三度叩くと出なくなりますと言って置いていった。五郎兵は、それから毎日酒びたりで働くことを忘れていたが、愛馬のあおの痩せ細くなった姿を見てはじめて我に気づき、河童の言葉を思い出し徳利の底をたたいて酒を断ち、またもとの働き者の五郎兵に戻ったという話です。この教訓的な話が江戸の出版物に載った為広く知られたようです。伝説なこの河童の徳利が発見されたのを機に、輪光寺に建立されたのがこの碑です。


C真光庵 (大日堂)

    天和年間(1,615〜1,624)創建
    横山半左衛門 開基


D了覚院 (阿弥陀堂)

    天和5年(1,619)
    大田善太夫 創



E祗園さま
 


 
円蔵の御神輿

 円蔵の神輿は、相模神輿を代表する技術の粋を集めた梅沢流の神輿で胴の大きさによって台輪・弁組・囲垣・唐破風・屋根などをきめる、相模独特な技割りの作りで、江戸前神輿の様な勾欄付きや金具をふんだんに使い見映え良くしているのと違い、浜降祭などでの潮風や海水にも堪え得るよう下地や外観に吟味した漆を塗り、欅材を使ったどっしりとしたお神輿です。又、胴の登り降りる龍などの透かし彫りや均整の取れた神輿の美しさは目を見晴らすものがあります。特徴としては、神輿の屋根に紋巴が付いてません、これは古くから近在唯一の神輿であった鶴嶺八幡宮の神輿を旧懐島郷七ヶ村で、みそぎ祭りから共に担いで来たが明治13年7月15日の浜降祭の後、円蔵の神輿がほしいと、その日に神輿新設世話人をつくり、二宮町の相模国梅沢流胴宮師、西山輿屋に神輿を依頼する。製作にあたり屋根に巴を付けるかどうかの時、鶴嶺八幡宮の神輿に紋巴が付いてなかったのでそれにならい屋根に紋巴を付けなかったと言われている。その後、八幡宮は昭和に入り神輿修理の時、屋根に巴を付けたが円蔵はそのままにして来たので付いてません。そしてその年、秋の例大祭を9月から10月に延期して、出来あがった神輿を村中喜び祝って担いだそうです。明治14年の浜降祭には、寒川神社・遠藤の御岳神社・岡田の日枝神社・大曲の十二神社・宮原の寒川神社と浜之郷の八幡神社・円蔵の大神宮・芹沢の腰掛神社・柳島の八幡神社・中島の日枝神社・下寺尾の八坂神社の10社の神輿が暁の海岸祭場へと、堂々たる渡御をしたと伝えられている。その後、神輿の大修理が大正9年になされ、明治13年より100年たった昭和53年春、再び修理して明治神輿の姿そのままに今日にいたっています。